AI探検隊

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YOMITOKU EP10 | 深掘り考察

人口211万で東京を抜いた8年間、大大阪が残したもの。

1925年(大正14年)の国勢調査で、大阪市の人口は約211万4,800人。東京市は約199万5,500人だった。 日本一の座にいたのは、1932年に東京へ抜き返されるまでの8年間だけである。 では、その8年は無駄だったのか。答えは逆で、いま大阪で毎日使われている道と駅と城は、ほぼこの時期に作られたものだ。 動画EP10では12分でその筋道を追った。この記事では、動画で断定しなかった部分と、残ったものの現在地まで含めて読み直す。

最終更新:2026年9月8日

まず、動画で12分

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動画で12分、記事でその裏側を。動画に入りきらなかった但し書きと、一次資料に到達できた数字・できなかった数字の線引きをこのページにまとめています。

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この回の数字

211万人 1925年の大阪市人口(東京市は約199万人)
6m→44m 御堂筋の道幅(1926年着工・1937年完成)
150万円 大阪城天守閣の再建に集まった市民の寄付

※ 数字は動画公開時点の公表値です。統計や計画は更新されるため、最新値は各公表元でご確認ください。

① 1925年、東京より大きい街があった

この回の物差しは「何を作ったか」

1925年の国内都市人口ランキング。1位大阪211万人、2位東京199万人、以下名古屋・京都・神戸と続く図解
図解①1925年の国内都市人口ランキング。1位が大阪、2位が東京だった。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

1925年(大正14年)の国勢調査で、大阪市の人口は約211万4,800人。東京市は約199万5,500人だった。3位以下は名古屋、京都、神戸と続く。つまりこの年、日本でいちばん人の多い街は大阪だった。いまの感覚だと、うまく像が結ばない数字だと思う。

この時代の呼び名が「大大阪(だいおおさか)」である。大阪府の「水都大阪」や関西大学の解説でも、当時の一般的な呼称として一貫して使われている。後世が付けたニックネームではなく、その時代の人が自分たちで使っていた言葉だ。

ニューヨーク・ロンドン・ベルリン・シカゴ・パリ・大阪の6都市を並べた当時の世界都市ランキングの図解
図解②ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリ、そして大阪。当時そううたわれていた並び。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

ここで一つ、線を引いておきたい。「当時の大阪は世界6位だった」という話は有名だが、これは二次情報止まりだ。ニューヨーク・ロンドン・ベルリン・シカゴ・パリに次ぐ6位という同じ順位・同じ都市名を、複数の歴史解説記事が書いている。ただし出どころとされる当時の大阪市の発表資料そのものには到達できなかった。だからこの記事では、世界6位を事実として断定せず「当時の大阪市がそううたっていた」という当時目線の紹介にとどめる。

そもそも順位は、抜いたり抜かれたりするものだ。だから今日は順位ではなく、中身の話をする。この回の物差しはこれである。

都市の全盛期は、人口ではなく、そのとき何を作ったかで読む。人口は抜かれる。作ったものは残る。

② 日本一になれた理由は3つ

震災の受け皿・44町村の編入・紡績

ひとつめは、関東大震災だ。1923年(大正12年)、東京が壊滅的な被害を受ける。人と工場が西へ移り、その受け皿になったのが大阪だった。ただし「東京から移ってきた会社が多かった」「経済の中心が一時大阪に移った」という部分は、企業単位の統計まで確認できていない。この記事ではそうみられます、という推定の扱いにとどめる。

1923年の関東大震災で倒壊した東京の市街地を写した古写真
1923年・関東大震災倒壊した東京の市街。この年を境に、人と工場が西へ動いた。撮影はアジャンス・ムーリス、フランス国立図書館(BnF Gallica)所蔵。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ふたつめは、市域拡張だ。1925年4月、大阪市は隣接する西成郡・東成郡の町村をまとめて編入した。大阪市の公式ページは、これを「大正14年4月【第2次市域拡張】181.68平方キロメートル」と記している。編入した町村の数「44」は市公式の本文には明記がなかったが、関西大学 大阪都市遺産研究センターと日本経済新聞が独立に「西成郡・東成郡の44町村」と書いており、数値としては矛盾がない。

1925年の第2次市域拡張で大阪市が周辺44町村を編入し181.68平方キロメートルへ広がったことを示す模式地図の図解
図解③1925年4月の第2次市域拡張。いまの大阪市の形は、ほぼこのときの輪郭である。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

この地図が重要なのは、現在の大阪市の形そのものが、このとき決まったからだ。100年前の手続きが、いまも住所と行政区の土台になっている。2025年は、その市域拡張からちょうど100年の年だった。

みっつめは、工業である。当時の大阪は紡績、つまり糸と布の産業で世界と勝負していた。作った糸と布を船に積んで輸出する。あだ名は「東洋のマンチェスター」。イギリスの工業都市になぞらえた呼び名だ。同時に、工場の煙突が空を埋めることから「煙の都」とも呼ばれた。いまなら公害と呼ばれる景色が、当時は繁栄のしるしだった。

1908年の大阪紡績 四貫島工場の全景。煙突が並ぶ紡績工場の古写真
煙の都大阪紡績 四貫島工場(『開国五十年史』1908年刊より)。撮影は大大阪期よりやや早いが、「東洋のマンチェスター」を支えた紡績工場の景色。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

震災の受け皿、市域の拡張、工業の力。この3つがそろって、大阪は日本一になった。逆に言えば、どれか一つが欠けても成立しなかった順位である。

③ 御堂筋 — 6メートルを44メートルに、11年かけて

「飛行場でも作るのか」と言われた道

日本一だった時代に、大阪は何を作ったのか。まず御堂筋である。ここで名前が出るのが、第7代大阪市長の関一(せき はじめ)だ。1923年に市長へ就任した学者出身の都市計画家で、目指したのは大きい街ではなく住みよい街だった。

第7代大阪市長 関一の肖像写真
関一 市長第7代大阪市長・関一。『故大阪市長関一市葬誌』(1936年刊・国立国会図書館所蔵)掲載の肖像。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

大阪市の公式ページによれば、御堂筋はもともと北の淡路町から南の長堀まで幅6メートル・約1.3キロの細い道だった。それを幅44メートル・南北約4キロに広げる。着工は1926年(大正15年)、竣工は1937年(昭和12年)5月11日。同ページは「着工より11年という長い歳月をかけての完成」と書いている。

御堂筋の道幅を6メートルから44メートルへ拡幅した断面比較の図解
図解④6メートルと44メートルの断面比較。道というより、細長い広場に近い。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

7倍以上の拡幅である。当時これがどう見えたかは、「飛行場でも作るのか」とからかわれた、という話が残っている。ただしこの一言は伝聞として広く語られているもので、発言者や出典まで確認できたわけではない。言い伝えとして紹介するにとどめておく。

関市長については、御堂筋の拡幅と地下鉄の建設に関しては「主導した」と書いてよいと判断した。市長自身が「都市大改造計画」を打ち出し、沿道の地権者に費用の一部を負担してもらう受益者負担金制度まで自ら導入していることが、大阪市の公式ページに明記されているためだ。構想だけでなく、財源のしくみまで設計している。

1930年代の御堂筋の掘削工事の様子を写した古写真
1930年代の工事御堂筋の掘削工事。道路の拡幅と地下鉄の掘削が、同じ場所で同時に進んでいた。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

広げた幅の使い方にも思想が出ている。44メートルのうち歩道が車道に迫るほど広く取られ、両側にはイチョウが植えられた。いま秋になると色づくあの並木は、この工事で生まれたものだ。大阪の背骨は、1937年に完成している

1930年の中之島。中央公会堂・市立図書館・市役所・日本銀行大阪支店と御堂筋が写る俯瞰の古写真
1930年の中之島中央公会堂から日本銀行大阪支店まで並ぶ戦前の中之島。建物はいまもほぼ同じ位置に建っている。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

④ 地下鉄 — 日本初の公営、1両で走り始めた

1933年5月20日、梅田仮駅から心斎橋まで

作ったもの、その2は地下鉄だ。1933年(昭和8年)5月20日、いまの御堂筋線が梅田(仮駅)〜心斎橋で開業した。日本で初めての公営地下鉄である。東京の銀座線のほうが開業は早いが、こちらは当時民営だった東京地下鉄道が敷いたもの。掘ったのが大阪市、つまり市民のお金で掘った地下鉄という点が違う。

1933年頃の大阪市営地下鉄 淀屋橋駅ホームの古写真。高い天井とアーチ状の構造が見える
1933年ごろ・淀屋橋駅開業当時の淀屋橋駅ホーム。撮影は石田房次郎(『日本写真全集7 都市の光景』小学館・1987年 掲載)。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

写真で見てほしいのは、天井の高さだ。地下の駅なのに、教会のような高い天井とアーチが組まれている。照明もシャンデリアのような造りで、当時の乗客がここを「地下の広間」として体験したことが分かる。戦前の大阪は、地下鉄の駅までかなりおしゃれだった

1935年頃の高速軌道 心斎橋停留場のホーム。長いホームと高い天井が見える古写真
1935年ごろ・心斎橋駅大阪市『大阪市域拡張史 十周年記念』(昭和10年)817頁掲載。将来の長い編成に備えて、ホームは最初から長く作られていた。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もう一つ効いているのが、ホームの長さである。開業のときに走っていたのは1両だった。それなのにホームは、将来の長い編成を見込んで長く作られている。1両しか走っていない路線に、何両ぶんもの穴を掘る。いま必要な寸法ではなく、将来必要になる寸法で掘ったということだ。90年以上たった御堂筋線が、いまも大阪でいちばん混む路線として走り続けている理由の一つは、ここにある。

1930年代の大阪市営地下鉄の駅構内を写した古写真
1930年代の地下鉄開業当時の大阪市営地下鉄の駅。朝日新聞社刊『新日本大観附満州国』より。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

なお梅田の駅は、開業時点では本設ではなく仮駅だった。本駅に切り替わるのは1935年10月6日。約2年半、大阪の玄関口はトンネル内の仮設駅で回していたことになる。

⑤ 天守閣 — 寄付150万円のうち、天守閣は47万1,409円

残りの半分以上は、天守閣以外に使われている

作ったもの、その3は大阪城天守閣だ。江戸時代に焼けて以来、大阪城に天守閣は無かった。それを復活させたのが、この時代である。竣功は1931年(昭和6年)11月7日。お金の出どころは市民の寄付150万円だった。

1930年建設中の鉄骨と1931年完成後の大阪城天守閣を並べた比較写真
工事中と完成左が1931年の完成後、右が1930年の建設中。鉄骨が組まれているのが分かる。撮影は毎日新聞社。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ここが、この回でいちばん誤解されやすいところだ。150万円は全額が天守閣に使われたわけではない。大阪城天守閣の公式サイト「復興90年の歴史」に、内訳が載っている。

天守閣 建設費 47万1,409円(寄付総額の約3分の1)
公園整備費 26万1,500円
第四師団司令部庁舎 新築費 残り約76万7,091円(寄付の半分以上が軍施設へ)
寄付総額 150万円(市民からの寄付)

つまり市民が出し合った150万円のうち、半分以上は天守閣ではなく第四師団司令部庁舎の建設費に充てられている。「市民の寄付で城が建った」という話そのものは事実だが、内訳まで見ると、時代の空気がそのまま金額に表れている。

1931年に再建されたばかりの大阪城天守閣の古写真
1931年・復興天守再建直後の天守閣。鉄筋コンクリート造で、当時からエレベーターが付いていた。写真: 大阪市立図書館デジタルアーカイブ / Wikimedia Commons(CC0)

中身も当時としては最新だった。鉄筋コンクリート造・エレベーター付き。城の形をした近代建築である。庶民がお金を出し合って城を建てた例は、世界的にも珍しいとみられます。

ここは表現に気をつけたい。御堂筋や地下鉄と違い、天守閣について「関一市長が主導した」と書ける裏づけは見つからなかった。公式サイトの文脈は市民の寄付が中心で、市長が発案・制度設計した証跡までは確認できていない。だからこの記事では「関市長の時代に、市民の寄付によって実現した」という書き方にしている。

1923年関東大震災、1925年市域拡張、1931年大阪城天守閣、1933年地下鉄開業、1937年御堂筋完成を並べた大大阪年表の図解
図解⑤1923・1925・1931・1933・1937。14年の間に、いまの大阪の骨格がほぼ出そろっている。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

年表にすると分かりやすい。道、地下鉄、城。どれも国からの贈り物ではなく、大阪が自分の財布から出して作ったものだ。

⑥ 1932年10月1日、東京が82町村を編入して抜き返す

大阪が縮んだのではなく、東京が広がった

終わりは、あっけない。1932年(昭和7年)10月1日、東京市が周辺5郡82町村を編入し、新たに20区を設置。既存15区とあわせて35区の「大東京」が誕生した。これは東京都総務局の公式ページ「大東京35区物語」で確認できる。

1920年から1940年までの大阪市と東京市の人口推移を折れ線で示し、1925年と1932年の交差点を強調した図解
図解⑥1925年に大阪が抜き、1932年に東京が抜き返す。2本の線が交差するのは、この20年で2回だけ。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

このときの東京市の人口を「約497万人」とする記述は複数の解説記事で一致しているが、東京都の公式ページ本文に具体的な数値の明記はなかった。ここも二次情報として扱う。確かなのは、82町村の編入によって人口日本一の座が東京へ戻った、という骨子のほうだ。

大事なのは、この逆転が大阪が縮んだ結果ではないということである。大阪は1925年に、東京は1932年に、それぞれ市域を広げた。順番が違っただけだ。7年前に大阪がやったことを、7年後に東京がもっと大きい規模でやった。それで大大阪時代は終わる。

1930年頃の戦前の大阪駅の駅舎を写した古写真
1930年ごろの大阪駅大大阪期の大阪駅。生活情報センター刊『100年前の日本』より。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

順位で読むと、ここは負けた話になる。実際、悔しい話だと思う。ただし冒頭で置いた物差しを当てると、話は変わる。人口は編入で動かせるが、作ったものは編入できない

⑦ 物差しで読み直す — 残ったものは、全部現役

8年の日本一は、無駄だったのか

御堂筋・御堂筋線・大阪城天守閣・現在の大阪市域という大大阪の遺産を並べた地図の図解
図解⑦いまに残る大大阪の遺産。道・地下鉄・城、そして市域そのもの。図解: 動画EP10より(大阪探検隊作成)

物差しを当ててみる。人口で読めば、たしかに負けだ。では、作ったもので読むとどうか。

御堂筋は、いまも大阪の背骨である。御堂筋線は、いまも大阪でいちばん混む路線だ。大阪城天守閣には、いまも世界中から人が来る。そしていまの大阪市の形そのものが、1925年の市域拡張の産物である。4つとも、記念物として保存されているのではなく、毎日使われている。全部現役だ。

1920年頃の初代通天閣と新世界の街並みを写した古写真
1920年ごろの新世界1912年開業の初代通天閣(1943年解体)と新世界の賑わい。残らなかったものも、もちろんある。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もちろん、この時代のものが全部残ったわけではない。初代の通天閣は1943年に解体された。市電も無い。残ったのは、その後の大阪が使い続けられる寸法で作られたものだけだ。1両しか走っていないのに長く掘ったホーム、6メートルを44メートルにした道。当時「やりすぎ」と言われた側が、結果として残っている。

1910年の道頓堀の賑わいを写した古写真。芝居小屋の看板と人通りが見える
1910年の道頓堀大大阪期の少し前、1910年の道頓堀。国立国会図書館所蔵の写真集より。写真: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

この物差しは、そのまま現在にも当てられる。うめきた二期のグラングリーン大阪も、万博のあとの夢洲も、いつか誰かにとっての「あの時代」になる。そのとき問われるのは、何位だったかではなく、何を作ったかだ。100年後に現役で使われている寸法で作れているかどうか、である。

こんど御堂筋を歩くときに、思い出してほしい。この道は、日本一だった時代の大阪が未来へ残した贈り物で、その未来とはつまり、いまのことだ。御堂筋のイチョウは今年も色づく。日本一の座より、ずっと長生きしている。

動画では言い切らなかったこと

断定できなかった部分と、線を引いた場所

「世界6位」の一次資料には到達できていない。ニューヨーク・ロンドン・ベルリン・シカゴ・パリに次ぐ6位という順位は、複数の歴史解説記事が同じ都市名で一致して書いている。ただし出どころとされる当時の大阪市の発表文書や統計原本そのものは確認できなかった。6都市の具体的な人口数値も同様である。だから事実としてではなく、「当時の大阪市がそううたっていた」という形でしか使っていない。

関一市長を「主導」と書いたのは、御堂筋と地下鉄まで。この2つは、市長自身が都市大改造計画を打ち出し、受益者負担金制度まで導入していることが大阪市の公式ページで確認できる。いっぽう大阪城天守閣の再建は市民の寄付という運動的な側面が強く、市長が発案・制度設計した証跡は確認できなかった。3つを同列に「関一が主導した」とまとめると、実態からずれる。

寄付150万円の半分以上は、天守閣以外に使われた。天守閣建設費47万1,409円、公園整備費26万1,500円、そして第四師団司令部庁舎の新築費が残り約76万7,091円。動画では尺の都合で150万円という総額だけを読み上げているが、内訳まで見ないと「市民の寄付で城が建った」という話の輪郭がぼやける。なお一部の報道由来の記事には「天守閣47万円・司令部80万円・公園23万円」という丸めた数字も流通しているが、この記事では大阪城天守閣公式サイトの精度の高いほうを採っている。

「東京から移ってきた会社も多かった」は推定。関東大震災のあと人と工場が西へ動いたことは各所の記述が一致しているが、企業単位の移転統計まで確認できていない。「経済の中心が一時大阪へ移った」という言い方も含めて、そうみられます、の範囲にとどめている。

「飛行場でも作るのか」は伝聞。御堂筋の拡幅計画が大きすぎるとからかわれた話として広く語られているが、発言者や初出は特定できなかった。当時の空気を伝えるエピソードとしてのみ扱っている。

2026年9月時点の続報

動画公開(2026年9月4日)の時点で確認できている、この時代の「その後」

アップデート(2026-09-08 時点)

大阪城天守閣は、2026年11月7日で復興95年。1931年11月7日の竣功から数えた年数である。100年に向けた、5年前の節目にあたる。

御堂筋は、2027年5月11日で完成90年。1937年5月11日の竣工から数えた年数。大阪市の「御堂筋将来ビジョン」(2019年策定)は、完成100年にあたる2037年ごろを目標に、車中心から人中心の通りへ空間を組み替える計画だ。長堀通〜道頓堀川の側道は2022年の閉鎖から段階的に歩道化され、2024年には東側・西側の一部歩道が使えるようになっている(大阪市「御堂筋の側道歩行者空間化」)。

大阪城天守閣の秋季特別展「戦国のきょうだい」は10月10日〜11月23日。復興95年の当日(11月7日)を会期に含む(大阪市 報道発表)。「95周年」を冠した記念事業は、9月8日時点で公式発表を確認できていない。

「大大阪」の資料展示。大阪市公文書館は、第2次市域拡張から100年を記念した展示「大大阪の軌跡」を企画してきた。開催状況は公文書館の展示案内で確認できる。

2025年は、第2次市域拡張から100年の年だった。1925年4月の44町村編入から数えて100年。いまの大阪市の市域は、この100年で形そのものが大きく変わっていない。

出典・参考

数字は下記の公表資料・報道から。リンクは別タブで開きます

※ 本文中の図解は、上記の公表資料をもとに大阪探検隊が再構成したものです。制度・計画・統計は更新されるため、最新値は各公表元でご確認ください。

よくある質問

「大大阪(だいおおさか)」とは何ですか?

大阪市が人口日本一だった時代の呼び名です。1925年(大正14年)4月の第2次市域拡張で市域が181.68平方キロメートルに広がり、同年の国勢調査で人口は約211万4,800人。東京市の約199万5,500人を上回って日本一になりました。紡績を中心とする工業都市として栄え、当時は「東洋のマンチェスター」「煙の都」とも呼ばれています。

なぜ日本一だったのは8年間だけだったのですか?

東京市が1932年(昭和7年)10月1日に周辺5郡82町村を編入し、既存15区とあわせて35区の「大東京」になったからです。市域が一気に広がった結果、人口日本一の座は東京へ戻りました。大阪が縮んだのではなく、東京が市域を広げたことによる逆転です。なお、このときの東京市の人口を約497万人とする記述は二次情報にとどまるため、当サイトでは断定していません。

大大阪時代の遺産は、いまどこで見られますか?

大きく3つあります。1937年5月11日に完成した幅44メートルの御堂筋とそのイチョウ並木、1933年5月20日に梅田仮駅〜心斎橋で開業した日本初の公営地下鉄である現在の御堂筋線、そして1931年11月7日に市民の寄付で竣功した大阪城天守閣です。3つとも現役で、さらに現在の大阪市の市域そのものが1925年の市域拡張を土台にしています。

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EP23 御堂筋から車線が消える日|2037年完全歩行者化と100年の大逆転

2037年、御堂筋の車線が消える。完成100年の大通りが歩行者の道に戻るまでの逆転劇。

探検隊のはじまりは、万博の記録

このサイトの原点は大阪・関西万博2025。数字で読み解いたあとは、実際に歩いた半年間の記録もどうぞ。

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